3/23(月)終業式での「校長式辞」を紹介させていただきます。
おはようございます。久しぶりに元気な皆さんと会え、うれしく思っています。
ところで、中庭みましたか? 見てもらった通り、枝垂れさくらが咲き、満開に近づいてきました。春はそこまできています。
3月3日卒業式を挙行しました。3年生が、桜塚高校を期待を胸に巣立っていきました。
皆さんの在校生送辞と、卒業生からの答辞も、本校ホームページにアップしています。
先輩の思いをぜひ、読んでください。
今日は桜塚高校に関連したことついて、昔の話を聞いてください。
一 土地についてです。
昭和8年市役所前の国道が開通しました。その後、国道東側の大規模な区画整理をすることになり、その中に、宝塚沿線最初の高等女学校(桜塚高校)を誘致することができたのです。まっ四角な校地を有する府立高校はなかなかありません。
本校より1年前に4町合併した豊中市も生まれました。市庁舎も区画整理地内にということで、お隣同士になったのです。
二 グランド北東角(野球グランドライト側)の慰霊塔について
たくさんの木々が茂っている場所です。昔校舎は、今と逆のバス道路沿いにありました。
学校草創期からの恩露園、恵風苑もその校舎近くにありました。ここに、終戦後も校地に保存してよいといわれた記念碑、慰霊塔があります。昨年度の北摂地震でブロック塀が、フェンスにかわり外からもよく見えるようになりました。
本校草創期に建立されたものです。昭和21年戦没者のための記念碑等について、学校及びその構内に存在するものは撤去することという通達がありました。ただし、一般文民の功労者等のために記念碑等の保存事業を行うことは差し支えないとの通達で、保存されることが決まったのです。
三 ほむら野の像
玄関から入ったところに女生徒像(ほむら野の像)を置いています。
第二次世界大戦中(1945年)、豊中高等女学校の生徒が、学徒動員により軍需工場で作業中、空襲により7名が死亡しました。昭和50年(1975年)豊中高等女学校の卒業生が学徒動員の記録を残そうと「ほむら野に立つ」という本を刊行した。翌昭和51年(1976年)その冊子の売上金により、玄関にほむら野の像が寄贈建立された。ほむら野とは、炎のことで、焼死した7名の冥福を祈っている。と記されています。図書室にたくさんの「ほむら野に立つ」の本を寄贈いただいています。ぜひ、読んでみてください。
そのような歴史のある桜塚高校に、4月から新入生が入ってきます。
先輩から引き継いだ、勉強、部活動、行事などの伝統を、後輩に引き継いでもらいたいと思っています。また、第一希望の進路実現に向け目標を再確認し、この春休みから実行してください。期待しています。よろしくお願いします。
しばらく不自由かと思いますが、コロナウイルスなど、病気にうつらないよう気を付けてください。以上の本校の歴史とお願いをして、今年度最後の私の式辞とします。